僕は本屋になりたかった

本の世界でさまよって

ヨーロッパでテロが横行している今だからこそ『パリは燃えているか?』をもう一度読んでみた

 その日、確かにパリは燃えていた。2015年11月13日、パリ同時多発テロによって130名もの尊い命が奪われた。同年1月にはシャルリー・エブド事件が起こり、また、2016年3月にはベルギーでもテロが起こっている。パリどころかヨーロッパ全体が炎上しているような状況だ。しかし、1940年代前半には、テロどころの騒ぎではなく、ヨーロッパ、さらには世界全体が恐怖と狂気に支配され、そこらじゅうの都市が燃えていた。パリも例外ではなく、1940年6月14日のパリ陥落からナチスによる支配が続いていた。

  

戦史ノンフィクションの傑作

 

 『パリは燃えているか?〔新版〕 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)』は、このナチス支配下のパリ市民の苦悩とパリ解放を描いたノンフィクション作品。原書の出版は1965年で、日本では1966年にハヤカワノンフィクションから出版されている。およそ50年も読み継がれている名作だ。本書の帯には、僕の好きな沢木耕太郎とノンフィクション作家の柳田邦男の推薦文が載っていた。

 

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 本書が取り扱うのは、1944年8月のパリ解放だ。パリ市民には申し訳ないが、このパリ解放は戦争の行方という意味ではあまり大きな意味を持たない。同年6月から7月にかけて実行されたノルマンディ上陸作戦を成功させた連合国側の勝利はすでにほぼ決定的になっていたからだ。

 

 つまり本書を読んでも第二次世界大戦の全体像は掴めない。では、なぜ本書が長きにわたり読まれてきたのか?なぜ名作と讃えられるのか?それは著者たちの圧倒的な描写力にある。まるで読んでいる僕たちがパリでの銃撃戦や解放の瞬間に居合わせたかのような臨場感が本書にはある。特に印象的だった箇所を引用してみよう。

 

一頭の馬は、建物から抜け出すのに成功して、弾雨のなかをシャンゼリゼ通りを走り出したが、たちまち一斉掃射をうけて棒立ちになり、一声いなないたあと、アスファルトの埃のなかに倒れてしまった。すると、近くの家という家から、手に手に皿や包丁をもったパリ市民駆け出してきて、解放のあとの見世物のためにフーケが注文した青、白、赤の三色旗の飾り総をつけたまま死にかけている美しい馬のまだ生暖かい肉を切りとりはじめたのである。 下巻p.83

 

銃撃の音、馬の声、倒れる音、そして、倒れた馬に向かって駆け出す人々の足音や声まで聞こえてきそうである。本ではあるが、本書からは鮮明な映像が浮かび上がってくるようだ。

  

歴史の流れを変える偶然のチカラ

 

 先に述べたように本書には圧倒的な臨場感がある。しかし、同時に本書は、パリ市民、レジスタンスやドゴール将軍、ドイツ軍、連合国軍など、多様な視点からこのパリ解放を捉えている。つまりミクロの出来事を積み上げることによってマクロの世界を描くことに成功していると言える。

 

 そのような視点で本書を読んでいると脳裏に浮かぶことがあった。それは、歴史の流れというのは予期せぬ出来事によって大きく変わりうるということだ。たとえば、パリ解放においても、そして戦後のフランスおいても、主人公であり続けたシャルル・ドゴール。しかし、ドイツ軍のライトホルト少佐がその気になりさえすれば、ドゴールは第二次世界大戦の終結の日すら迎えられなかったかもしれないという事実がある。その箇所を本書から引用する。

 

照準線のなか、わずか百メートルほどのところに、フランス軍の将官がカーキ色の軍帽をかぶってオープンカーの後部座席にどっかりと腰を下ろしていたのである。引金に指をあてて、ライトホルトはその姿に狙いをつけた。射撃の名手だった彼は、一発でこの将官を射とめる自信は充分にあった。下巻p.384

 

 直後に群衆がそのフランス軍の将官を取り囲み、拍手喝采を送り出したので、ライトホルトが引金は引くことなかった。当時のライトホルトは知らなかったのだが、そのフランス軍の将官こそ、シャルル・ドゴールその人だったのだ。

 

 また、パリが廃墟とならなかったのも、いくつかの偶然のおかげといってもよいだろう。一つ目の偶然は、連合国軍のパリ入城が予定よりも早まったということ。二つ目は、ドイツ軍パリ司令官がフォン・コルティッツ将軍だったということだ。

 

 当初、連合国軍は、パリ解放を後回ししようとしていた。パリを解放するにはそれだけの兵力が奪われることも一因だが、解放後に必要となる食料や石油などのエネルギーを考えての戦略だった。しかし、パリでレジスタンスとドイツ軍との衝突が起きたことでこの計画は変更され、予定よりも早くパリ解放が実現した。連合国軍のパリ入城が予定どおりであれば、もしかするとパリは破壊されていたかもしれない。

 

 次に、パリの司令官ヒトラーの狂信的な信者であれば、やはりパリはヒトラーの命令どおりに破壊されていただろう。ヒトラーは、パリをとても重要視していた。「とにかく死守せよ、それが叶わないのであれば、廃墟にせよ」。それが、コルティッツ将軍に課せられた使命だった。

 

 しかし、コルティッツ将軍は結果的にどちらの命令も実行しなかった。攻めてきた連合国軍に対して、形だけの抵抗はしているが、とても死守と呼べるようなものではなかった。また、破壊についても準備はしておきながらも、爆破の命令は下さなかった。おそらく彼は、この戦争の結末を確信しており、負けることがわかっていながらパリを爆破するということに合理性を見つけられなかったのだろう。

 

 恐怖と狂気が支配した世界で冷静に世界を見ていたドゴールやコルティッツ。戦局が悪化していく中で次第にカリスマ性を失い、ただの狂人となっていくヒトラー。命をかけて街や家族を守った無名の人々の想い。本書には、たしかに血の通った人間たちのドラマがあった。